浄土真宗本願寺派の僧侶、宇佐美嘉浩(法名釋嘉心)がみじかに起こったこと、感じたこと、思ったこと等
みじかくお話するコーナーです。みじかな法話(法話でないこともあります)
宇佐美嘉浩(うさみよしひろ)真光寺衆徒 1968年広島県呉市出身 ダンスはおどれません。
人身(にんじん)受けがたし今すでに受く 仏法(ぶっぽう)聞きがたし今すでに聞く(礼讃文:三帰依文)
今年も残すところあとわずかになってきました。今年はコロナに振りまわされ、真光寺の法要・法座もすべて中止となりました。その為か?いつもよりも早く一年が過ぎゆく様に思います。気温もグッと下がり、冬も本格的です。風邪もばかにできません、皆さん気を付けましょうね!
『お寺には掲示板があります。
たまたま通りかかったお寺の掲示板に貼りだされた、とある標語を読んでお味わいさせて頂いていますと、通りかかられたどこかのお爺ちゃまが、その標語を見られて・・・しばらくして・・・”なんのこっちゃ!?”と言われてそのまま去って行かれたのです。
それ以来、いろんな所で色々な標語を見るたびに、その時の光景とそのお爺ちゃまの”なんのこっちゃ!?”というセリフが頭を駆け巡るのです。(涙)』
とあるお寺の掲示板の標語です。
”亡き人を案ずるあなたが 亡き人から案じられている”
葬儀やお通夜、法事など私たち僧侶はご本尊にむかってお参りしますので、亡くなった方々へのお参り、亡くなられた方へのお経さま、読経と思われがちです。しかしながらお念仏のご縁を頂く私たちは、この世のご縁尽きるその時には、仏さまのお力(他力本願)によってお浄土へと仏としてお救い頂く事であります。
ですからお経さまを読経することによって、亡くなられた方が楽になるとか、良いところへ行く等など・・・
供養の為のお参りではありません。
浄土真宗の開祖、親鸞聖人もこのようにおっしゃられています。
”親鸞は父母の供養のためとて 一返にも念仏申したる事 いまだ候はず”
私、親鸞は父と母の供養の為に、お念仏申した事は一度もありません。
それでは誰のためのお経さまなのでしょうか? つづく
称名 (2020年12月)
写真は昨年の報恩講法要のお荘厳等を載せています。真光寺本堂お内陣:親鸞聖人さま
それでは誰の為のお経さまなのでしょうか?
誰のためのお念仏なのでしょうか?・・・この私です。
この娑婆世界、迷いの世界で生活している・・・この私です。
人間に食べられる為に生まれてきた命なんてひとつもありません。牛・・豚・・鳥・・魚・・お野菜もそうですね・・。
朝、昼、晩、と当たり前の様に沢山な命を頂き、たったひとつのこの私の命を維持させて頂いています。
美味しい!・・うまい!・・ならまだしも・・・
この肉硬いね・・これあまり美味しくないね・・・等、
のうのうと過ごしておるこの私・・・。地獄行きは確実です。
更には蚊がプーンと飛んでますと”パシッ”と叩いてしまう私。
ゴキブリやムカデや虫が出ると”シューッ”とスプレーを吹きかけてしまう私。
更には常にいかり、腹立ち、そねみ、ねたむ心、煩悩の殻に覆われている私。
どうして?お浄土に?・・・生れ往くことが出来ましょうか!
地獄、餓鬼、畜生にしか生まれ往く事が出来ない私を・・・。
そんな私をもあわれみ、あなたを救わずにはおれない・・・かけがえのない命のあなたを救わずにはおれない、といつも願ってくださっておる・・・親さまであります。
しかしながらこの私は、そんな仏さまの思いもわからず、日々の生活に追われているのが現状ではないでしょうか?
どうぞ仏さまの前に座り、手をあわせ、お念仏申させていただきましょう。
称名(2020年12月)
何年か前の新聞記事に”継がれぬ墓、無縁”という記事が出ていました。継がれぬ墓、無念・・・とかけてるのかなとも思いましたが・・・。高齢化社会と少子化問題がお墓にも影響を与えつつあり、身寄りが無くなった相続されないお墓が整理され、”お墓のお墓”がある、というものでした。
野ざらしにされ、雑草がおおいしげり、どなたもお参りに来られてないんだなあ・・・というお墓を多々見ることがありますが、お墓が捨てられる時代になったのか!・・・と少し怖い記事でした。
その時、頭に浮かんだのが”姥捨て山”です。
歳をとった老人はもういらん!という殿様の取り決めにより
お母さんをおぶって山に捨てに行くんですね・・・。
ふっと気が付くと背中のお母さんが木の枝を折っておる・・・。
どうして木の枝を折っているのだろう?
と疑問に思いながらも
息子は更に山奥へ、山奥へと入って行きます。
そしてお母さんを下ろして、ひとり山をおりる事となるのですが、山奥へと入り込んだ為に、道に迷ってしまいます。
だんだんと日が落ちて薄暗くなり始め、あっちやろうか?こっちやろうか?と右往左往しておると
”ふと道端に、薄明かりの中、月の光に照らされて白い花が輝いておる”よ〜く見てみると、来るときにお母さんが、ぽつりぽつりと折っておった木の
枝だったのです。
しばらく歩くとまた白い花がついた木の枝が落ちておる・・・。
またしばらく歩くと、白い花が輝いておる・・・。
息子はその時”ハッ”と気づくんですね・・・。お母さんはこの私の為に
道に迷わぬように、枝を折って道しるべとしてくれてたんだ・・・。
そう気づかされた時には、お母さん!お母さん!と叫ばずにはおれなかった
そうであります。
私たちは必ず一秒一秒歳をかさね、老いていき、そしてこの世のご縁尽きる時がやってまいります。必ず訪れる死にたいして、何のなすすべもない私たちをあわれみ、救うてくださる阿弥陀さま・・・。
南無阿弥陀仏のお念仏となって、私が生まれる前から、私が気づく前から、この私に至り届いて下さっておる・・・。
そのように気づかされた時、ナンマンダブ・・・ナンマンダブ・・・とお念仏申さずにはおれない・・・
父母、祖父母、先にお浄土へ生まれ往かれた(往生された方々)方々が、お念仏という白い花を輝かせ、この私の歩む道をお示しくださっておることであります。
称名(2020年12月)
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