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真光寺は 浄土真宗本願寺派 のお寺です

あ寺のある町

筑紫野市湯町(二日市温泉)

活動報告写真


『湯の原に 鳴く蘆鶴は 我がごとく
         妹に変ふれや 時わかず鳴く』


日本最古の和歌集”万葉集”に収められている大伴旅人の歌である
太宰府赴任時、妻を急病で見送りその深い悲しみ辛さを
”湯の原に鳴く鶴の姿”にかさねて詠んだもので『二日市温泉』が
その舞台である
写真の石碑は真光寺のちょうど向かい側にたてられています
当時は次田温泉、武蔵温泉などと呼ばれ1950年(昭和25年)
『二日市温泉』と命名される。
1896年(明治29年)夏目漱石が新婚旅行で訪れたことでも有名である。二日市温泉のゆるキャラ小便小僧ならぬ
温泉小僧が迎えてくれますよ!どうぞ身体は温泉でリフレッシュ!心はお寺で阿弥陀さまのお慈悲にゆったりと
浸かって頂けたらと思います。
〜温泉音頭で景気づけ〜
大正末期から昭和初期にかけての経済不況は、この温泉街にも訪れた。農閑期の湯治客には、大きな変動はなかったようだが、遊興客にはかなり影響した。こんな武蔵温泉への誘致対策として登場したのが、歌と踊りなどによるテコ入れ策である。昭和十年(1935)三月、筑紫路観光協会が発足、観光PRのため民謡・童謡詩人野口雨情が作詞した「筑紫小唄」と同福田正夫作詞の「湯町音頭」レコードを制作した。天拝山や武蔵寺、太宰府天満宮、観世音寺など史蹟も唄いこんだほか、湯の町情緒もたっぷりと芸妓の三味線のメロディーにあわせた振り付けも加えて、大いに宣伝した。
同十三年になると、地元の若手経営者などから”湯町振興”の声も強くなり、日中戦争に突入してから戦争景気にもあおられた。そこで宣伝効果を狙った新しい「温泉音頭」が制作、発表された。新しい曲は、「二日市温泉音頭」(持田勝穂・作詞)と「同温泉小唄」(金山正春・作詞)の二曲。
「温泉音頭」は、プロの作詞・作曲だが「温泉小唄」の方は、湯町育ちの当時中学生だった金山とコンビの三條康信が作曲した。いずれも湯町、二日市だけをテーマに民謡と歌謡調で、前二作よりはモダンな感覚でつくられた。
〜筑紫野市史より〜

二日市 地名の由来

活動報告写真

全国各地には三日市や四日市、五日市という地名があります。むかし、そこで定期市が開かれていた名残です。当時の二日市もそのひとつで、毎月2のつく日に大勢の売り手と買い手が集まって取り引きをしたことから、その名があります。定期市の多くは、鎌倉時代に始まったようです。それまでの物々交換に加えて、地方の荘園や国衙領内の交通の要地に定期的に市が開かれるようになりました。

二日市の地名が記録の上で最も古く表れるのは、小弐政資が筑紫満門に宛てた文明11年(1479)の安堵状(土地の所有権を認めた文書)です。それ以前の記録の多くはすでに失われていますので、詳しいことはわかりませんが、古代からここが政治・経済の要地であったと考えると、おそらく二日市の前身はもっと古くさかのぼることができるでしょう。それは、菅原道真が大宰府謫居中に詠んだ『菅家後集』(903年)の次の一節から推測できます。
「郭西路北買人声、無柳無花不聴鶯・・・」これは榎寺が郭西(右郭)にあって市に近かったので、物売りたちの声がやかましいばかりで、立春後50日もたつのに花も柳も無く、鳥の声を聞くこともない、と日の当たらぬ自らの人生を対比させて詠んだ詩です。これによって平安時代にはすでに榎寺からそう遠くないところに市があったことがうかがえます。さらに、長元8年(1035)に観世音寺が大宰府に宛てた文書のなかに「市町垣内」の名が見えます。この時代ではまだ二日市とは記されていませんが、この市町が二日市の前身ということがわかります。
では、この市町とはいったい何だったのでしょうか?先に定期市の多くは鎌倉時代に始まったと述べましたが、当地ではそれ以前から市が立っていたことになります。関係する古文書からみると、この市町は川のほとりにあったようです。のちの二日市は鷺田川のほとりにあり、しかも榎寺の付近に位置していますので、三者の関係は緊密であると思われます。(一部省略)二日市の起源はどうやら大宰府政庁の市町にあったようです。
〜筑紫野市教育委員会 ちくしの散歩より〜


天拝山(標高257.4m)

活動報告写真


 太宰府に流刑された菅原道真が自らの無実を訴える為に何度も登頂ししたことが山名の由来である。
 地域の子供たち小学校、中学校の遠足や登山等で手軽に親しまれている、標高257.4mの比較的登りやすい山です。
 よし!久しぶりに登ってみよう!と真光寺横道から登山し始めると
2度3度ほど休憩しながら40〜50分で山頂に到達しました。
日頃の運動不足が身にしみる思いでしたが
一気に視界が広がり山頂の展望台からは筑紫野市太宰府市
春日市大野城市の町並みや宝満山能古島など見渡せました。当日は少しぼやけていましたが、空気が澄んでいればペイペイドーム福岡タワーまではっきり見る事ができそうでしたよ。
 筆者も娘の影響により現在”鬼滅の刃”にはまっており、竈門神社から是非とも次は宝満山(標高829.6m)へ登山してみようと思っています。


大宰府政庁跡

活動報告写真

 2015年10月31日には”ももいろクローバーZ”のみなさんが男性限定ライブ「男祭り」を開催した場所でも有名ですね!

古代、西海道と呼ばれた九州一円を統轄していた大宰府は外交・貿易などの対外交渉の窓口として重要な任務を課せられていた。その機構は中央政府に準じ、地方機関としては最大規模の行政組織を有していた。
 発掘調査によると、七世紀後半に堀立柱建物が建てられ、八世紀初頭に礎石を用いた朝堂院形式の建物に整備される。この建物は藤原純友の乱によって焼き打ちされたが、十世紀後半には立派に再建された。現在見ることのできる礎石は、この再建期のもので、左上図は発掘調査の成果をもとにして復元したものである。これらの建物は菅原道真が「都府の楼はわずかに瓦の色を看る」とうたっているように壮大なもので、当時としては中央の都の建物のも劣らぬものであった。
 正殿は重層風につくられ、屋根は入母屋ないしは寄棟造りであったと思われる。
 このような政庁を中心にして周囲は、数多くの役所が配置され、その規模は平城・平安の都に次ぐ「天下の一都会」
であった。
〜昭和六一年三月福岡県教育委員会 政庁前の看板より〜



過去のお寺のある町 2020年
過去のお寺のある町 2021年









真光寺

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